おみこしの窓 〜バンドのあれこれ〜

音楽、バンドに関する様々なアレコレを書いています

雨の音を聞きながら

今週のお題「雨の日の過ごし方」

 

何だかまた随分と書きづらいお題がきた。果たしてアラサー独身男性の私の雨の日の過ごし方にいかほどの需要があると言うのだろう。晴れの日の過ごし方だって別に需要ないだろうけど。なかなか頭を悩ませるお題だ。

 

今回でかれこれ二カ月、私は欠かさずに今週のお題に挑戦し続けている。こんなにも熱心に記事をしたためているのに、未だに私の記事は週間はてなブログに紹介されない。とても悔しい。こうなったら紹介してもらえるまで、意地でも今週のお題に投稿し続ける所存だ。

 

果たして私のブログに足りないものとは何だろうか?自己を客観的に見つめ直すことは難しい。なので、私は他の方が投稿している記事を見て回り、自身の記事と比較をしてみた。すると、私の記事には根本的に不足している要素がある事に気がつく。

 

「内容」だ。

 

そう。恐るべきことに私の記事にはおよそ内容と呼べるモノがない事に気がつく。最近だとヨガの話をしている女がダルシムに見えるだとか、ハーゲンダッツと浮気しているところをスーパーカップに見られただとか、およそ人生において全く読む必要性のない記事ばかりが目立つ。クソみたいな話ばかりだ。

 

私は心を入れ替えた。今回こそ私の記事を読んで頂いた方に何かを与えられる様な、そんな内容のある記事を書こうと心に決めた。

 

「雨の日の過ごし方」

 

このお題に対して、私は一体何を提供できるだろう。嘘偽りのない話をするならば、私は雨の日には「雨の音」を聞いて過ごしている。せっかくなので今日は、この雨の音が秘める素晴らしい文学的なポテンシャルについてご紹介したい。

 

要約して伝えると「雨の音」を文末に添えれば大抵の文章は文学的な詩的表現になると言う話だ。

 

例えば私は雨の日には基本的に部屋にこもってダラダラしている。ダラダラからのゴロゴロまでしている。更にはダラダラゴロゴロからのウダウダまでやってのける。これをそのまま書いてしまうとだらしのないオッさんの話にしかならず、文学的な魅力は皆無であると言える。

 

ここに「雨の音を聞く」と言う要素を加えてみるとこうなる。

 

「私は雨の日にはついつい部屋にこもりがちになる。ソファに寝転がってダラダラしてゴロゴロしてウダウダする。雨の音を聞きながら...」

 

どうだろう。私のこの部屋にこもってダラダラゴロゴロウダウダしているだけの日常に「雨の音を聞く」と言う要素を加えるだけで、途端に日常は色彩を帯びて文学的になる。

 

この「雨の音を聞きながら...」と言う表現はある程度、どの様な文書にも応用できる。鼻くそをほじる事すら、文学的にできる。例を出すならこうだ。

 

「私は雨の日にはついつい部屋にこもりがちになる。ソファに寝転がってダラダラしてゴロゴロしてウダウダしながら鼻くそをほじり、指先で丸める。雨の音を聞きながら...」

 

詩的だ...。鼻くそですら何かの季語になっている様な雰囲気を醸し出している。雨の音と言う詩的な表現が鼻くそを包んで美化してくれている。革新的な技法だ。

 

更には応用編活用もご覧に入れよう。私が雨の日に部屋でダラダラゴロゴロウダウダしながら鼻くそをほじりオナラをする。そんな些細な日常の出来事も雨の音と交わればすぐに詩的な文章となる。

 

「私は雨の日にはついつい部屋にこもりがちになる。ソファに寝転がってダラダラしてゴロゴロしてウダウダしながら鼻くそをほじり、指先で丸める。下腹部から押し出し放たれた放屁は...静かに雨の音に溶けていった...」

 

アンビリーバブル。

驚くべき汎用性の高さだ。鼻くそとオナラを詩的に表現するなんて不可能だと思っていた。今まさに、不可能を可能にした歴史的な一歩を私は踏み出したのだ。

 

皆様も是非、文学的で詩的な文章を綴りたいと思った際には、雨の音をお供にする事を試して頂きたい。思った以上に何でもいけます。

 

うん。

 

何だか歴史的な一歩を踏み出したと言うより、人として外してはいけない何かを思い切り踏み外してしまった様な気がしてならない。

 

まあ良いか。たまにはそんな記事を書いたって。私は布団に寝転がり、うたた寝に興じるとする。雨の音を聞きながら...。